2/2/のGoogleロゴがメアリー・サマヴィルに変更されました。
いったいどんな人物なのでしょうか?
調べてみると、かなり昔の偉人でした。
全く聞いたことのない名前ですが・・
この人についていろいろ調べてみました。
メアリー・サマヴィルはスコットランド出身の女性博学者
メアリー・サマヴィルは1780年にスコットランドで生まれた博学者です。
海軍中将の娘として生まれました。
女性が科学者として活躍するには制限があった時代に活躍した、い
今でもサイエンスライターという職業はなかなか聞きませんし、ノ
メアリー・サマヴィルは幼い頃から地理学と天文学を学び、叔父であるトマス・サマヴィルからラテン語も学ぶようになったと言います。
メアリー・サマヴィルの熱心に授業を受け、兄弟がわかならい数学の授業を教えるほどにまで成長したという。
メアリー・サマヴィルはエディンバラでアレクサンダー・ネイスミスという人から美術も習うことになる。
感じがよく礼儀正しい振る舞いをする彼女をみてエディンバラの社交家たちの間では「ジェドバラの薔薇」と呼ばれていたそうです。
なんのことかよくわかりませんが、人柄のいいメアリー・サマヴィルを認めたニックネームということでしょう。
娘の死により勉強が封じられるメアリー・サマヴィル
この頃、娘が10歳の若さで他界したことを巡り事件が勃発する。
メアリー・サマヴィルの勉強のしすぎが娘の死に関わったと考えた両親がメアリー・サマヴィルの勉強をすることを禁じてしまいます。
それでもメアリー・サマヴィルは勉強をすることを諦められずに秘密に独学で勉強を続けた。
1804年にはメアリー・サマヴィルは遠縁の親類であるキャプテン・サムエル・グレイグと結婚した。
この時のメアリー・サマヴィルは24歳。
メアリー・サマヴィルとサムエルの間には子供が生まれ、子供も法廷弁護士及び科学者となった。
夫妻はロンドンに住んでいたが、まもなくしてメアリー・サマヴィルはスコットランドに帰省することになる。
以前から比べ勉強しやすい環境になったとはいえ、夫は女性が学問的関心を探求する能力を持っているとは思えず、女性が学問をすることに対して偏見を持っていた。
夫が1807年に他界。
その後にスコットランドに戻り学問に熱中したと言われている。
メアリー・サマヴィルの死
メアリー・サマヴィルは夫の死後、遺産を受け取り学問の研究に没頭する日が続く。
1812年にメアリー・サマヴィルは別の親戚で陸軍医療委員会の査察官であるウィリアムと結婚。全夫とは違いウィリアムはメアリー・サマヴィルの物理化学研究を強く後押し。
妻の研究に対する熱意と能力を評価していた。
2度目の結婚でメアリー・サマヴィルは4人の子宝に恵まれる。
メアリー・サマヴィルは科学者として広く名声を得ることになり、その後イタリアに行きウィリアムと生涯のほとんどをイタリアで過ごすこととなる。
メアリー・サマヴィルはその後、1872年11月29日に亡くなり同地のイングランド人の墓地に葬られた。
まとめ
メアリー・サマヴィルは科学者として、女性が活躍できない時代に活躍した偉人ということはわかりました。
功績はたくさんありますが、ありすぎるので割愛しますが、歴史的な偉人であることは間違いありません!!
しかし、誕生日も他界した日も今日と関わりがあるものは一切ありません。
しかも、スコットランドの偉人ということで日本となんの関係性が・・?
この後ちょっと調べてみたいと思います。
今日がメアリー・サマヴィルとどんな関係があるのかはわかりませんが、数少ない女性サイエンスライターということで世界的に偉人とされている理由はわかりました。
苦労の末、世間に認められたメアリー・サマヴィルに拍手を送りましょう!!